岡倉 天心 ● Tenshin Okakura

岡倉天心(おかくら てんしん)・・・本名は、岡倉覚三(おかくら かくぞう)
江戸時代末期1862年(文久2年)、横浜に生れ、1913年(大正2年)9月2日、50歳で赤倉温泉にて永眠。岡倉天心は、明治期の美術指導者であり、思想家です。東京美術学校(現・東京藝術大学)を創設し、初代校長となりました。そして、横山大観、下村観山、菱田春草らの大画家を育てるとともに、橋本雅邦(はしもと がほう)と日本美術院を創設し、美術運動の拠点としました。その後、ボストン美術館の東洋部長をつとめるとともに、この時代にあって、なんと英語で「茶の本」を出版したのです。世間が、西洋文化の波にのまれつつある中で、東洋・日本の文化と思想の重要性を訴えた思想家としての一面をあらわにしました。
岡倉天心は、日本近代美術の父と言われながらも、自身では、ほとんど美術作品を残しませんでした。一方、多くの芸術家を育て、天心は、美術品の目利きでありながら、“人間の目利き”であり、芸術の題材となる“景勝地の目利き”であったと言ってもよいでしょう。その岡倉天心が、赤倉温泉を賞して、「世界一の景勝の地」と語ったのです。また、「山の赤倉温泉、海の五浦(いづら)(茨城県)」として、日本を代表する両景勝地とそこに住む人たちをこよなく愛しました。(赤倉温泉観光協会︱赤倉温泉の魅力より)
天心と妙高
明治39年、岡倉天心が赤倉温泉の地を訪れました。岡倉天心は、世界的画家横山大観、菱田春草、下村観山らの師として知られ、日本近代美術の父とも言われています。
岡倉天心は、当地を訪れると、「世界一の景勝の地」と激賞しました。そして、別荘「赤倉山荘」を造るとともに、赤倉温泉を「東洋のバルビゾン」にしようという構想をつくりました。
「バルビゾン」とは、フランスの都パリの郊外にある美しくも静かな村です。「落穂ひろい」や「種まく人」で有名な世界的画家ミレーらが住み、多くの画家を輩出した地です。天心は、赤倉温泉に日本美術院を移し、バルビゾンに負けない芸術発信地にしようとしたのです。そこで、天心は、弟子の横山大観、菱田春草を赤倉温泉に招き、彼らもまた赤倉温泉を激賞しました。ところが、天心があまりに当地のことを熱を入れて誉めるので、その意向を察し、本題を切り出される前に、天心が寝ている隙を見て東京に帰ってしまったのです。大観と春草は、赤倉温泉を絶賛しつつも、東京からは余りにも時間がかかる遠いこの地に美術院を移すことには納得できなかったのです。
現在は、当地に理解のある平山郁夫画伯による、岡倉天心の遺志を実現したいとのはたらきかけもあり、「平山郁夫世界文化芸術研修交流センター」が設立されました。
現在、赤倉温泉と東京は約3時間で結ばれるようになりました。これを横山大観、菱田春草が知ったら、赤倉温泉を「東洋のバルビゾン」にしようと納得することでしょう。
(赤倉温泉観光協会︱赤倉温泉の魅力より)
天心・岡倉覚三先生略年譜
- ※1872年までは旧暦
- 1862年 文久2年 0歳 12月26日、父・岡倉覚右衛門、母・このの次男として横浜に生まれる。幼名は角蔵(後に覚蔵)
- 1869年 明治2年 6歳 ジェームズ・パラーの塾で英語を習いはじめる。
- 1870年 明治3年 7歳 母この、妹を産んだ後、急死。
- 1871年 明治4年 8歳 父が大野しずと再婚。覚蔵は神奈川県長延寺にあずけられ、玄導和尚より漢籍(漢文で書いた書物)を学ぶ。
- 1873年 明治6年 10歳 一家をあげて東京に引っ越す(父母、翌年より宿屋を開く)。覚蔵は東京外国語学校に入学。
- 1875年 明治8年 12歳 東京開成学校学校(後東京大学となる)に入学。名を「覚三」と改める。
- 1879年 明治12年 16歳 大岡もと(十三歳)と結婚。
- 1880年 明治13年 17歳 東京大学文学部を卒業。文部省音楽取調掛となる。
- 1881年 明治14年 18歳 長男一雄生まれる。
- 1884年 明治17年 21歳 長女こま生まれる。奈良・法隆寺に救世観音を見る。
- 1886年 明治19年 23歳 美術取調季員としてフェノロサと欧米視察に行く。
- 1887年 明治20年 24歳 欧米視察より戻る。フェノロサと欧米視察の講演。
- 1889年 明治22年 26歳 2月、東京美術学校開校。帝国博物館理事及び美術部長となる。
- 1890年 明治23年 27歳 東京美術学校初代校長となる。
- 1893年 明治26年 30歳 帝国博物館の依頼により、清国(中国)に美術調査の旅に出る。「支那旅行日誌」を記す。
- 1896年 明治31年 35歳 東京美術学校長を辞職する。日本美術院(院展)を創立。
- 1901年 明治34年 38歳 インド旅行に向かう。詩人・タゴールと親しくなる。
- 1902年 明治35年 39歳 インド旅行より帰国。
- 1903年 明治36年 40歳 「東洋の理想」がロンドンで出版される。五浦(茨城県大津町)に土地を求める。
- 1904年 明治37年 41歳 大観春草、紫水を連れて渡来。ボストン美術館で東洋部顧問になり、日本絵画蔵品目録を作成する。 万国博の芸術・科学会議で「絵画における近代の問題」を講演する。「日本の覚醒」がニューヨークで出版される。
- 1905年 明治38年 42歳 アメリカより帰国。五浦の住居を拡張、瞑想の場・六角堂を建てる。二度目のボストン美術館勤務に出発。
- 1906年 明治39年 43歳 ボストンより帰国。「茶の本」がニューヨークで出版される。妙高高原を初めて訪問。ただちに赤倉に土地を求め、八月、山荘を建てる。
- 1907年 明治40年 44歳 文部省美術展覧会審査委員となる。図画玉成会を結成、会長となる。五浦で日本美術院披露の観月会を開く。日本彫刻会を結成会長となる。
- 1910年 明治43年 47歳 ボストン美術館中国日本部長となる。
- 1911年 明治44年 48歳 ボストン美術館で「東アジアの絵画における自然」を講演。ハーバード大学より文学修士号授与される。
- 1913年 大正2年 50歳 オペラ台本「白狐」を執筆。4月、健康の悪化で帰国、五浦にもどる。8月赤倉山荘に静養に行く。 9月2日午前7時3分、腎臓病がもとで赤倉にて死去。